「対馬丸」の悲劇。

非常に蒸し暑い。 ここ数日、いわゆる「夕立」が関東地方を襲っている。非常に強い雨、風を伴った「どしゃ降り」の「夕立」に襲われています。今日からは日本海側の上空の寒気団が東に移動するので、「安定」したお天気と予報されているが、空は「あやしい雲」が、また、「窺って」います。

ブラジルで行われている「サッカー」の試合で、「日本チーム」は一勝もできず、大敗して、4年に一度の国際大会に区切りがついた。必死に戦った「選手」、采配を振るった「監督」そして国内外の「日本チーム」を応援したファンも、これで一つの「区切り」がついた。 それぞれの「立場」で、皆が一つの目標に向かう「心地よさ」が、爽やかだったと思う。

この「サッカー」の試合も「一つの闘い」です。
夫々の「チーム」が、「国」の「シンボル」を掲げている。 言ってみれば「国際スポーツ戦争」です。

「勝つために」色いろなことが試合で起きている。 例えば、相手の選手の背中を叩いたり、蹴ったり。

実際の「戦争」では、お互いの「命」が掛かっている。

その犠牲になった「事件」、「対馬丸」の悲劇の話を、先日新聞で学んだ。
船の大きさは総トン数6,754トン。貨物船だったそうです。

事件が起きたのは1944年8月22日。鹿児島県悪石島付近で、米国潜水艦の「魚雷攻撃」を受け、沈没。
学童数約800名を含む約1500人が犠牲になった。
それから、「時」は70年の歳月が流れている。

痛ましい事件。

この船に乗船していた人達は、日本の「絶対国防圏」の要と位置づけされていた「サイパン島」が連合軍に
陥落した。
「次の決戦場は沖縄」と、みた日本政府は「奄美大島、徳之島、沖縄島、宮古島、八重山」から『老幼婦女子』を
直ちに「島外」へ引き上げさせろ。と、強い「疎開命令」をだした。 この真意は「婦女子」等の「邪魔者排除」
あるいは「口減らし」だったとか。

出航の翌日1994年8月22日、「対馬丸」の監視兵が左舷方向に「魚雷」の「跡」を数本発見。
1、2弾は逃れたが、3段目が「学童を収容した船倉の真下に命中」。これだけの多数の方々がお亡くなりになった。

こうした悲劇は、「あった事の事実」さえ「伝えられていない」そうです。

この悲劇があって70年。

2度とこんな「悲劇」が起きる「戦争」は絶対にしてはいけません。

新聞の「話」を読み、今 痛み入っています。

 

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ほりたろう について

ウォークマンで音楽を聴きながらデジカメを片手に持って、散策するのが大好きなお爺さんです。17歳の「パピオン」「雄」 を飼っています。
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